
私が一昨日北九州市を訪問する途中に寄った大分(だいぶ)八幡宮は、九州には多い八幡宮の一つのようにも見えますが、その歴史には格別なものがあります。
飯塚市教育委員会が設置した各文化財の説明看板にもこの神社の由来書きが簡単に書いてありますが、実はもっと詳しく書いてあるのが、私がいつも参照する貝原益軒先生の筑前國續風土記です。その量は9ページ(5見開き)にも亘り(参考のために画像を掲載します)、この一頁目にある「日本国中にて八幡五所別宮の第一なり」も説明看板に掲載してあります。

別宮というのは、総本宮の宇佐八幡の別宮ということなんですが、第一がここ大分八幡宮、そして筥崎宮(福岡市)、千栗八幡宮(佐賀三養基郡)、藤崎八幡宮(熊本市)、新田八幡宮(薩摩川内市)、鹿児島神宮(霧島市)の五つだとされています(順序については各神社毎にそれぞれ伝承あり)。
また、3枚目の右ページ5行目に註釈として小文字で書かれているのが、やはり説明看板に「筑前の学者である貝原益軒が、公家の花山院前内府定誠公に書いてもらったものです。」とある「額の大分宮の三字は、花山院前内府定誠公の筆なり。是元禄四年篤信が都に在しとき、乞によりて筆をそめたまえり。」です。篤信というのは、益軒の実名です。
ここにいう額が掲げてある鳥居は、一枚目の写真の手前から三つ目の少し白い鳥居、三の鳥居で元禄三年(1690年)の寄進、一番手前の鳥居は寛永七年(1630年)建立です。
もちろん、神亀三年(726年)創建時代の物は皆無ですが、それでも江戸時代初期の建造物が多い歴史が感じられるお宮でした。
